米国・英国・タイ王国に在住し、インターネットがない時代にバックパッカーで世界を放浪。完全異色の様々な人生経歴を持ちながら、本年度、カンヌ国際映画祭のレッドカーペットに立たれた映画監督・田中壱征さんに、官公庁及び上場企業でコミュニケーションブランディングを行っている伊田光寛さんが特別インタビューを行い、田中監督の映画に込める思いについて伺って来ました。
令和4年度沖縄県後援 新作映画「風が通り抜ける道」製作秘話
伊田:お久しぶりです、壱征さん。年々、快挙たるご活躍ですね。
新作映画「風が通り抜ける道」(以下、通称:風道(かぜみち))が2024年の春に、米国・英国のAmazonプライムで、世界配信されるとのことですが、今回制作にあたってコロナの影響などはありましたか?
田中:本当におかげさまで、感謝しかありません。まず、前作の映画「ぬくもりの内側」ですが、コロナ禍真っただ中になってしまい、一般劇場公開のタイミングが大幅にずれてしまい、延期を余儀なくされてしまいました。
が、しかし、大変有り難いことに厚生労働省から「推薦状」を頂くことが出来、そして文化庁の主催で、全国の小中高校にて学校学習上映が出来るようになったんです。
日本全国のいろんな学校を回り、のべ1万人の生徒さんに、「繋がって行く命」と「命の大切さ」「心を託すことの大事さ」を、学習上映と講壇で伝えて来ました。中には、自殺を取りやめてくれた生徒さんも数名いて、直接のご本人からのお手紙を通して、後で知るという・・・その時は、涙を隠すことは出来ませんでした。このような映画「ぬくもりの内側」の経緯がありながら、時間にも少し余裕が出来ましたので、新しい映画を製作しようと、2021年に撮影がスタートし、2023年7月に「風道」最終本編が出来上がったんです。
伊田:「風道」の舞台の一つである沖縄の国際通りは、撮影当時はほとんど人がいなかったのではないでしょうか?
田中:はい、全くその通りで、国際通りは、10人も歩いていない状況でした。だからこそ綺麗で美しい「沖縄県」をたくさん撮ることができました。もし、今、沖縄県へ撮影に行ったとしたら、国内外の観光客だらけで、同じ画は撮れないと思います。
そして沖縄だけではなく、今回の風道で、北海道、秋田、青森、千葉、東京、神奈川、静岡、愛知、岐阜、大阪、福岡、佐賀、熊本と、「日本列島全体の映画」にしようと思ったんです。全国各地の都道府県庁や市、企業様・個人様にも多大なる応援を頂き、奇跡的に完成した次第です。
伊田:事前に「風道」を拝見することが出来て、誠に有難う御座います。今回、テーマの1つとして「地方」と「東京」の対比があるのかなと感じました。
田中:地方に住む人々にとっては、東京で成功することに希望や価値を見出すことも少なくないと思いますが、やはり結果的に、「本当の想い」をいつの日か諦めてしまう人が、大半ではないかと思います。ですので、地方から東京に行って、頑張るぞ!!という方々に、声援を送りたい!!一緒に頑張って行こうね!!という意味を込めて作りました。
自分も若くして日本を捨てて、日本から完全に離れて、海外へすべて身を投じた時は、そりゃもう大変でした。もちろん「東京」と「海外」は全く違いますが、私が海外に行き、経験した孤独や不安という苦い思いもあったので、「風道」の中で、東京と地方の対比を描いてみました。
伊田:今回、「心の居場所」というのも「風道」のキーワードになっていますよね。
田中:団塊の世代の方々は、住む家や守るお墓はあると思いますが、実は、ほとんどの方々が、心の居場所がないのかな?と思ってしまうんです。毎年、年齢を重ねていくという事実は、同時に、自分の「本当の居場所」が段々と不透明になっていくことなのではないでしょうか。
自分の残りの人生をどうするかを真剣に考えたときに、「健康でなるべく長生きして生きたい」という少し保守的な方もいれば、「最期の人生なんだから自分自身を最大限に活かして、ラスト熱く生きよう!!」という人もいます。小生は後者になっていくのかなと思いますが、出来るのであれば、そういう方々を増やしていけたらと思っています。
私を育ててくれた祖父は、全国をマニュアル車で回り、色々な方とコミュニケーションをはかり、熱意もお金も、色々な方に与えていっていたように思います。
伊田:今の東京では、「居場所」のない若者も実際多いと思うのですが、監督のメッセージとしては、その「居場所」を自ら作っていかなければいけないということですね。
田中:老若男女問わず「居場所」はどんどん変わっていくものかもしれません。そのヒントになる要素が全部「風道」には詰まっていますので、そういうところを感じてもらえると嬉しいです。
田中監督の映画作りの原点
伊田:当時ニューヨークではどのように過ごしていたのでしょうか?
田中:大好きな開高健さんの本には、海外でやるべき三箇条として「街を歩け!!現地の新聞を読め!!現地の人と付き合え!!」と書かれていて、まずは毎朝7時半にカフェへ行くようにしたんです。インターネットもない時代だったので、全く分からないニューヨークタイムスを目で追っていました。すると、同じ時間帯に来るお客さんたちと少しずつ挨拶や話をするようになって、最初は少し人種差別も感じることもありましたが、次第に打ち解けて行きました。
「何しにニューヨークに?」「目的はないけど、日本を捨てて来ました」(笑)「目的くらい作れよ、よう、マン!!!」みたいな。 そんな日々を繰り返す中、現地の恋人も出来ました! 恋人や仲間のおかげで、仕事も出来るようになり、ビザもゲット。
が、しかし、結局その会社は吸収合併されてしまい、ビザも当然切れてしまいました。恋人との別れ(距離)が一番きつくて、最後、お別れしてしまったんですよね。「このまま日本に帰りたくない、自分の寂しい思いをなんとかしたい!!」と思い、それぞれの国へ放浪の旅が始まったワケです。
伊田:そのときに映画監督になろうという思いはなかったのでしょうか?
田中:当時は全くありませんでした。映画の「え」の字もありませんでした。
その後、バックパッカーで、様々な国を放浪した後、最後、タイに在住することになるんですが、日本へ本帰国する日、朝方に日本列島領域に入った飛行機ANAの中で、夢を見たんです。それは、「エンディングロールのラストに自分の名前がはっきり映し出されている夢」でした。
当時、そんな夢を見ても、監督になんてなれるわけない!!と。だけど、その夢はとても印象に残っていました。
伊田:いつも異次元な展開を繰り出し、その田中監督のバイタリティー溢れる行動力の源は実際どこから来ているのでしょうか? 誰もが気になっているところだと思います。
田中:両親が2歳のときにいなくなったので、大正生まれの祖父母とともに、千葉県柏市で暮らしていたのですが、ハンバーグやスパゲティー、スープなど一切食卓に出て来ない、いわゆる大正時代のレトロな生活スタイルでした。
今思うと、大正・昭和初期の大事な想いが自分の中に自然に入っているわけなんですが、幼い時の自分は、そんなこともわからず、環境から逃げ出す事ばかりを考えていました、番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」の「ニューヨークへ行きたいかー!」がすべてでしたね。(笑) ですので小学生の頃から、いつか自分はアメリカに行くんだ!!と思っていました。アメリカには本当の居場所があると!!
だから、中学校1年の2学期初日に、ボストンバック2つを持って、完全に家出をしたんです。港か船で住み込み仕事をすれば、海外へ行ける日が来る!!なんて、14歳の無謀な挑戦が始まったんです。結局、全国捜索願が出され、見つかってしまうのです。日々を通し、祖父母からは、「私たちがこの世からいなくなったら、お前は一人になってしまうから、実際、寂しい思いをするかもしれないから、今のうちに自分の人生を少しずつでいいから考えていきなさい」と言われて育ったんです。家出から帰宅し、年老いていく祖母が流していた涙を見て、もう2度と家出はしないと決心したんですが、一人になる時が来たら、海外へ行く!!と心の中では思っていました。
「今の枠から飛び超えたい」・・・ずっと思ってきている原動力なのかもしれません。
伊田:自立心は小学生の頃からあったんですね。監督の映画は人間の機微や家族関係をテーマにしているものが多いと思うのですが、何かの影響を受けていらっしゃるのでしょうか?
田中:「北の国から」の倉本聰さんの影響を深く受けましたね。恋愛やサスペンス・バイオレンス作品は何度も見るものではないと思うんです。人間のハートだけを打ち出す2時間ものの脚本を書くのが一番難しいのですが、映画製作に取り組むなら、その一番難しいヒューマン映画を撮ってみよう。ということで、ヒューマン映画に特化するようになりました。
伊田:人間力を深掘りして、2時間を表現するのはとても難しいと思うのですが、ご自身の経験を元に表現されているのでしょうか?
田中:原作脚本や映画演出は、全部自分の生きてきた経験値、実際に見た感動そのものですね。「最期の人生をいかに愛で生き抜いていくのか」に焦点をあてた前作「ぬくもりの内側」では、実際にホスピスの現場に行って見て感じたもの、自分が関わってきた人々を作品にしております。
脚本家として、それぞれの神髄や内容を追及していくことそのものが大事ですし、1本の映画に対して、とことん追求して、出し切っていくのは当たり前なのです。過去に売れている要素だけを集めたような作品にはしたくない・・・幼い頃から一所懸命に生き抜いてきた感性を信じたいですし、クリエイターとしてのプライドがあります。
伊田:田中監督の撮影スタイルはどういうものなのでしょうか?
田中:小生は九星気学(帝王学)では九紫火星なので、”火”なので熱が冷めないうちに動いてしまわないとって思うんです。
映画製作というのは、企画構想からクランクインまで、通常、1年から1年半程はかけるものですが、次回作「雨のち晴れの予定 TOKYO LOSS2」は、今までと違うものにしようと思ったんです。5月末にフランス カンヌから日本に帰る飛行機の中で脚本を書き、帰国後、5日で最終キャスティングを行い、6月末にはクランクアップを果たしました。通常ではありえないですよね。製作に2−3年かける映画「ぬくもりの内側」「風が通り抜ける道」のような長期の基本ベースは今後も大事にして参りますが、いきなり1000メートルダッシュみたいな映画製作も、チャレンジそのものだと感じています。
大林素子さん・氏神一番さん・酒井敏也さん・田中壱征監督・いしだ壱成さん
伊田:撮影はシーンの順番に撮るものではなく、最初とラストを同じ日に撮ったりすると思うのですが、そんな短期間でパズルの組み合わせのようにシーンを撮り進めていくことは大変ではなかったのでしょうか?
田中:これはもう慣れです。1994年に新入社員で講談社「ベストモータリング 」映像編集部に入り、いきなり先輩たちから映像の組み立てを学びました。フジテレビからの外注ディレクターさんをはじめ、映像演出・映像編集、ナレーションを、生でずっと見てきましたし、当時、仕事が一人前になれていなかった分、たくさん、たくさんしごかれましたからね。
しかも、私の編集部直上の先輩が、早稲田大学と学習院大学出身のエリートそのもので、その合理的頭脳と時間内の実行適応力に朝から深夜までついていくのが、毎日必死だったことを、今でも鮮明に覚えています。「田中、本当に大丈夫か?」「はい、全く大丈夫ではありませんが、頑張ります!!」の毎日でした。20代頭から、「映像の仕事そのもの」を知ったので、「柔軟なる土壌」が出来たのだと思います。そして、その後、バックパッカーをやっていたので、「こうじゃなきゃいけないという考え」がない分、より自由に、本撮影が出来ると思います。
人生100年時代を生きる上で大切なこととは
伊田:話を戻しますが、人生の居場所はどんどん変わっていいとおっしゃっていましたが、監督のようなフレキシブルさが50歳代以上にこれから求められてくるんでしょうね。
田中:最終的には、それしかないと思います。年を重ねていく上で、「軸」は大事だと思うんですが、「意地」や「頑固さ」は必要ないと思うんです。臨機応変に対応できる人間力・器、そして人間愛そのものが不可欠だと思うんです。
例えばですが、私が地方の田舎街にいて、急に「いますぐニューヨークに行け!!」と言われたら、一刻と勝負をしながら、準備や荷物なしで、その日にすぐにニューヨークに飛べると思います。(笑)
伊田:監督が海外や国内の滞在先で大事にされていることはありますか?
田中:「いつも新たなことが発見できる方」を選択するようにしています。
そして、今でも、世界の都市や東京を拠点に、またバックパッカーをやりたいなと思っています。
(山田邦子さん・未來貴子さん・ケニー大倉さん)
伊田:人生100年時代において、今監督はちょうど折り返しを迎えられているところですが、今後の人生がどうなるか監督自身では予想できないという感じでしょうか?
田中:私自身、いつもバックパッカー魂なので、先のことは分からないです。
ただ、これまでの人生の中で、自然に相手を傷つけてしまったり、嫌な思いをさせてしまったり、多々あったと思うんです。そして、恩や愛を大事に出来なかったこともありました。離婚で、連れ子や実子との別れもありました。小学校1年生の娘は、本当のお父さんが大好きな子でした。私は、娘となるべく一緒の時間を過ごしたい。平日の6日間を一緒に生活をするんですが、日曜日になったら、娘は本当のお父さんのところへ会いに行くんです。6日間の愛が、全て日曜日に持っていかれてしまう繰り返しでした。が、しかし、1年の月日を共に生きて、血のつながりのない娘がやっと、はじめて「パパ」と呼んでくれて、膝の上に自然と甘えてきたんですよね。娘を抱きしめながら、もう、涙が止まりませんでしたね。「パパ、もっと頑張るからね!!」って心底思いました。
でも、結局、離れ離れになってしまった。人生の何よりも、心にこたえましたね。小生が幼い時、若い時に味わった身内との別れより、愛する二人の子供たちとの別れは本当に辛かったですね。街中で親子連れを見る度、思い出してしまうし、ずっとずっと辛かったですね。幼い頃から常に別れが付きまとっていた小生の人生そのものが、脚本作りや映画製作に対して、何かをバックアップしてくれているようにも思います。リアルな演出にも、役に立っているのかなと感じています。長年、自分のことをよく知っている方々が、私の映画を見ると、「お前の人生への想いも、人に対する思いもいろいろ反映されているよな」と言ってもらうことが少なくありません。1999年1月、インドで、所持金350ドルのみになってしまったバックパッカー時代。
それでも、歩くしかなかったその精神を持って、これからも「本当の人間っぽさ」を映画で映していきたいなと思っています。
伊田:これから、「おじさんたちが自分探しをする映画」があっても面白そうですね。
田中:次回作がそういった内容も入る長編映画になる予定です。キャストも脚本もとにかく豪華ですので、是非見守って頂けたらと存じます。
INTERNATIONALへの挑戦
伊田:そして今回、改めまして、沖縄国際映画祭「正式出品作品」、SUPER STARAWARDS CANNESでの受賞。そして、カンヌ国際映画祭レッドカーペット、誠におめでとう御座いました。
田中:沖縄国際映画祭「正式出品作品」は、本当に感謝しか御座いません。沖縄県をはじめ、風道に携わって頂いた全国の2000人弱の方々の一人一人のお力があって、完成した作品ですからね。重ね重ね、深い感謝しか御座いません。SUPER STAR AWARDS は、昨年はニューヨークのロックフェラーセンターで開催され、今年はカンヌでした。実は参加者の4割が、アメリカ人・イギリス人の実力者ばかりで、バラエティー豊富な式典でした。カンヌ国際映画祭におきましては、完全に小生の力不足で、「正式出品作品」までは届くことは出来ませんでした。ただ、今回、公式ホテルのBarrière Le Gray d’Albionにて、披露上映を果たすことが出来ました。「受賞作品」「正式出品作品」とは天地の格差です。ただ、今回、本場のカンヌに行けたこと、そして世界TOPのレッドカーペットを単身でも歩くことが出来たことは、深く勉強になりましたし、やっと自分自身のスタート地点に立てたように思います。
(BSよしもと映像LIVEより)
(France TV 全世界 一斉同放送)
伊田:これからの数々の映画製作、そして一般劇場公開、世界配信を心から楽しみにしておりますね。
国内外の皆様が、ヒューマン映画の真髄をこれからも心待ちにしていますよ。田中監督、また、近々、再会をしましょう!!
田中:はい、是非!!!映画「ぬくもりの内側」出演女優:音無美紀子さんとのインタビュー以来、三菱UFJ信託銀行さんで、この度、このような大切なお時間を頂けたこと、本当に幸いに思います。
そして、一般劇場公開の際には、足を運んで頂けたらと思います。今後、海外拠点が多くなりますが、また東京に戻って来ますね!!まだまだ未熟な小生ではありますが、より精進を重ねてまいります。伊田さん、ニューヨークかロンドンで、居場所を求めた再会もいいですね!!!
今後とも、何卒宜しくお願い致します。
-映画監督 / 脚本家 田中壱征-
2歳で両親を失い、10代で育ての祖父母をを失くす。講談社『ベストモータリング』編集部を辞職し、バックパッカーとして世界一周に挑戦。米国、英国、タイにも在住経験を持ち、20代の半分以上は海外で過ごす。マイナスの裸一貫から、生き抜いて来た。
2017.10 釜山国際映画祭 釜山市友好作品授与
2017.11 アジア国際映画祭 正式出品作品 ノミネート受賞
2018.3 オスカーアカデミー賞90th(米国ハリウッド) 公式参加
2018.10 フランス政府認定 フランス社会功労奨励賞 文化芸術部門 『オフィシエ勲章』授与
2022.3 前作品「ぬくもりの内側」厚生労働省推薦
2023.4 映画「風が通り抜ける道」沖縄国際映画祭正式出品
2023.5 SUPER STAR AWARDS CANNES「BEST FILM AWRDS賞」受賞
2023.5 カンヌ国際映画祭2023 レッドカーペット
伊田光寛さん
株式会社ファンタジスタ&パートナーズ コミュニケーションディレクター
1972年北海道生まれ。95年同志社大学商学部卒業。リクルートを経て独立。これまで300社以上の人材・組織ブランド戦略に携わったほか、官公庁・上場企業をはじめとしたグローバル企業などのコミュニケーションブランディングで実績を持つ。最近では、世界で大きなテーマとなっている”企業文化創造”の専門家として、注目を集める。