執筆者:小松成美

>>作家・小松成美がエンディングノートを作ってみたら(前編)

50代から始める「エンディングノート」

私のエンディングノートの書き方

さあ、いよいよエンディングノートに書き込んでいきましょう。書き方はさまざまです。パソコンで打ち込むのも良いですし、ノートに手書きで書くのも良いでしょう。何を書くか、というのも人によって変わるかもしれません。今回は私なりの書き方をご紹介したいと思います。

まず、私は、2冊のノートを用意しようと考えています。それは、「生活編」と「終末編」です。

「生活編」

この先から老後と呼ばれる日々の日常に必要な情報を書きます。

◆本人に聞けば分かる、と蔑ろにされがちな生年月日や本籍地、学歴や職歴など、これまでの歩みも正しく書きます。
◆親族や友人、関わりのある出版社と担当編集者といった、交友関係の連絡先をリストアップしていきます。
◆既往症、ホームドクター、かかりつけ医、飲み薬、病院などの一覧を記します。
◆経済状況、不動産情報、ローンの情報、自分の代理となる人の氏名と役割などを記しておきます。
◆年金、銀行口座や預貯金、生命保険、クレジットカード会社などの一覧。(個人情報は、信頼できる親族か、貸金庫などに預ける必要があります。)

「終末編」

人生の最期に望むこと、その具体的な内容を書きます。考え方が変わったり、新しい情報を得たりしたなら、こちらも日々書き換えます。

◆判断力が低下したりしたときなどの判断基準、延命措置の有無や病気になったときの告知方法など、明記しておくつもりです。
◆葬儀の形式や場所、喪主を誰に頼むのかなど。お墓に対する私の考え方についても記しておくつもりです。
◆持ち物やデータの処分方法とその依頼先を決めて記します。
◆仕事先や行政窓口など、死後に必要な連絡先一覧。
◆法的手続きや遺言書のためのプロフェッショナル(行政書士、司法書士、弁護士)の連絡先。

法的強制力がないからこそ、自由に書ける

こうして書いてみると、すべてを一気に書いくことはなかなか大変そうですね。案外自分でも把握できていない情報があるのではないでしょうか。もちろん、いきなりすべてを書き記す必要はないと思います。エンディングノートはアップデートが可能ですから、少しずつ書き足すくらいの心持ちでいきましょう。
そもそもエンディングノートは、遺言とは異なります。規制がないため自由に書けるという良さがあります。自分の考えを明確にするためにも書き始めることが大切なのです。私自身、自分の心を整えるための記述であると感じています。だからこそ、気合を込めて書いたけどその後は放ったらかし、は禁物です。エンディングノートは他者に読ませるためのものではなく、自分自身との対話が目的です。ですから、揺れ動く気持ち、自分らしいわがままなど、日記のように気軽に書いていければ良いのだと思います。

終末についての具体的なメモ

ここで、一つの例としてですが、終末について私が書いた具体的なメモをお見せしましょう。
私は、エンディングノートの「終末編」に、自分の葬儀と埋葬について書きました。もちろん、現在の考えであり、後に変わるかもしれないのですが、今はこう考えています。それが以下の記述です。

【お墓、埋葬について】

両親のためのお墓は用意しています。お墓参りや法事といった行事は、この先、存命である限り私の勤めであると思います。しかし、私はそのお墓に入るつもりがありません。両親のお墓は、弟とその子供たちに託すことになるでしょうが、家族がない私自身は散骨を望みます。散骨するのは海、長年暮らした神奈川の街から臨む相模湾が希望です。
配偶者や子供がいれば家族会議を行い、皆の意見に従う判断もあったかもしれません。が、私にはその必要がありません。
作家・小松成美に会いたい、と言ってくださる友人や読者、仕事関係者もいるかもしれません。そうした方々へは「海を見たら、小松成美を思い出してください」と、その言葉をお伝えしたいと思っています。
海洋散骨は、現在は法的にも認められており専門の業者さんもいます。散骨の業者選定は、この先に行いたいと思います。

この記述を書いたときに、悲しさは微塵もありませんでした。むしろ、最期を思うことで、生きていくこれからの時間を大切に感じることができました。
こうした記述は、エンディングノートに日々増えていくと思います。

自分の死後に、残したいものたち

自分の資産をどうするか?

ここからは、小松成美オリジナルのエンディングノートと言えるでしょう。
まず、私自身の本の著作権の行方について、しっかりとエンディングノートに書いていこうと思っています。
現在、著作権の原則的保護期間は、本を創作した時点から著作者の死後70年です。2018年にそれまでの50年から20年伸びました。
私はこの著作権を遺産として親族に譲るのではなく、公的なものとしたいと考えています。印税など死後の報酬は、作家を目指す若者のための奨学金にしたいです。知財を管理してくれる団体か、もしくは、できたら自分で財団を立ち上げて創作に励む未来の人たちに役立てたいです。そのためには、奨学金制度や財団の準備をしなければなりません。これもまた私の「終活」と言えます。

厄介な荷物の整理と役立て方

自分の身の回りにある物は、増えていく一方です。私も自分の部屋を見渡すと、すぐにでも断捨離を行わなければ、と思いますが、なかなか行動できないでここまで来ました。

断→本当に必要なもの以外を買わない。
捨→いらないものを捨てる。
離→とりあえず取っておこう、何かに使えるかも、という執着から離れる。

断捨離は、私のエンディングノートの最重要項目です。

物を極力持たないミニマリストも増えていますね。ミニマリストとは最小限(ミニマル)の物で暮らす人のことですが、最晩年にはそうありたいですね。
そうした生活を目指して「片付け」がようやくスタートしたのですが、この片付けの過程もエンディングノートには記すことにしました。

10,000冊に及ぶ本は、本当に必要な物を除いて、図書館への寄贈を考えています。稀少な歴史書や専門書などは、必要な人があればお譲りしています。

クローゼットの中身に何百枚もの洋服が並んでいます。メディアに出演する機会や取材のためにシーズン毎に買っていた洋服を、私は捨てることができませんでした。
OLになってから買い続けた当時のデザイナーズブランドの靴やバッグは、ライターとして活動し始めた頃に一度全て捨てたことがあります。身分不相応なスーツやブランド品を買っていた自分を顧みて、大きなため息をつきながら、廃棄処分にした物の総額は3000万円でした。
捨てるものに支払った金額を数えることなど無益なのですが、やはり「もったいない」と考えてしまうので、役に立てていただけるものなら差し上げたいと思い、情報を集めました。
着古したものは廃棄しましたが、未使用・ほとんど着ていない衣類も数多くあります。

◆ユニクロなどの商品は、ユニクロのリサイクルボックスへ。
◆着物やブランドのスーツなどは、映画の衣裳を取り扱う会社へ。
◆スポーツウエアやスニーカー、ダウンジャケットなどは難民支援のNPOへ。

こうした行き先が候補に上がりました。捨ててしまうことが一番容易いですが、役に立てる、という小さな喜びが断捨離を加速させてくれることになっています。

デジタルデータの管理

私のライティングデスクに置かれたパソコンには、この20年かけて執筆した原稿が保存されています。また写真も同様です。デジタルカメラで撮影していた時代以上に、スマートフォンで撮れる昨今はその枚数も激増しています。
現代ではそうしたデジタルデータの全てをクラウドでも保存していますので、パソコンの故障などでデータを失うことはありません。
仕事をしている限り必要なものですが、死後はパソコンに残る原稿や記念写真などは消去します。パソコンやスマートフォンのデータ消滅と、正しい廃棄を信頼できる者に頼みます。
2021年に98歳で亡くなった瀬戸内寂聴さんは、30代の秘書さんに葬儀や死後の整理を頼んでいました。現時点では、データの処理という重要事項を任せる者として親族と秘書の名前をエンディングノートに記していますが、瀬戸内さんのように、私自身の最期を託す人との出会いが、この先に訪れるかもしれません。

作品へのコメント録を作りたい

ノンフィクションの作品に登場した主人公の方々との関係は、本当に特別なものです。家族でも友人でもないのですが、人生を切り結んだ人、という実感があります。書く側と書かれる側でしか感じられない感情、想いがあるんです。

私が執筆した方々は、多岐に渡っています。現役を引退したスポーツ選手、すでに亡くなった方、舞台や競技場でその姿を見る方、時折あって近況を伝え合う方、現在も取材を継続している方、と様々です。
主題となった方々への思いと、作品の誕生する背景を記すコメント録をエンディングノートの残すことはとても感慨深いです。長い取材時間と執筆を経て誕生した書籍の数々は、言うなれば私の人生の軌跡そのものですから。

コメント録のうちの一つ、その冒頭をご紹介しましょう。
『勘三郎、荒ぶる』
という本についてです。

十八代目中村勘三郎の公認ノンフィクション。
五代目中村勘九郎時代から、14年の歳月にわたり取材を重ね、勘三郎という大名跡を襲名した後に出版。
15歳の時に観た若き勘三郎の歌舞伎に魅せられて歌舞伎の虜になっていった私は、四百年続く人間の悲喜劇を描く芝居の真髄を、勘三郎さんから教わった。
「歌舞伎は古典が第一、その型ができていなかったら、舞台に立つ資格はないよ。だけどね、歌舞伎は時代の遺物なんかじゃない、今を生きるエンターテイメントなんだ。だからね、昔の役者の真似だけして、偉そうな顔しているなんて恥ずかしいよ。目の前のお客様を楽しませる芸と芝居を追い求めなきゃ、ダメなんだ。小松さん、おれのライバルはジャニーズのSMAPと嵐なんだよ!」
そうした熱い言葉を聞きながら、進めて行った取材は、私にとって至福の時間だった。
そうした時間があと20年も、30年も続くと信じていた2011年12月、57歳の若さで天に駆けて逝ってしまった。
歌舞伎座へ足を運ぶたびに、その時の悲しみと悔しさが蘇る。その前年、勘三郎さんと私は、こんな会話を重ねていたのに。
「勘九郎の頃にはさ、舞台に老いさらばえた姿で立っていたくない、最高だって思われているうちに引退するよ、惜しまれて去る、っていうふうにね」
「それはあまりにもったいないです。勘三郎さんが舞台にいるだけで、観客は幸せなんですよ。舞台を見ては、次はあの芝居が見たい、その次は、この芝居も、と、歌舞伎ワールドに引きこまれているんです。だから引退なんて言わないでください」
私が頼んでも、首を縦に振らない勘三郎さん。ところが、勘三郎襲名前の勘九郎さよなら公演で楽屋を訪ねると、満面の笑みで勘三郎さんはこう畳み掛けた。
「小松さん、おれ、さっさと引退する、って言っていたけど、あれヤメにするよ。ジジイになって、足引きずっても舞台に上がるよ。歌舞伎はさ、歳くって、飽きるほど生きて、それでやっと演じられる境地だってあるんだよ。ここ数日で、それが分かったの。100まで生きて、芝居するからさ、小松さんは、90歳でおれのことを書いてよね」
100歳の勘三郎さんの姿が浮かんで、嬉しくなって、私はその場で少し泣いた。泣いている私を見た勘三郎さんは、「こんなことで泣く奴があるかいっ!」と言って涙声になり、私に見えないように背を向けて、右腕でぐいと涙を拭った。
こうしたコメント録は、それぞれの作品に添えられるよう、最晩年になったら、出版社・担当編集者に届けたいと思います。

終わりに

まだまだ死は身近ではありませんが、こうしてエンディングノートと向き合ってみて、あっという間に過ぎていく毎日が、どれほど大切な瞬間か思い知ることができました。
ノンフィクション作家として、幾人もの人生を丹念に掘り下げてきましたが、実は、私自身にもそうした作業が必要だったのです。人生を穏やかな気持ちで振り返り、明日を大切に生きていく。そのためにエンディングノートが大きな役割を果たすのだと知ることにもなりました。
エンディングノートを付けることは、自分の人生を整えていく作業です。私もさらに準備を進めていきます。ぜひ皆さんも、ご自身の思いを文字にして、忙しない日々の中で固くなった心を紐解いてください。

>>作家・小松成美がエンディングノートを作ってみたら(前編)

Profile
ノンフィクション作家
小松成美
神奈川県横浜市生まれ。広告代理店、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。生涯を賭けて情熱を注ぐ「使命ある仕事」と信じ、1990年より本格的な執筆活動を開始する。
真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。
主な作品に、『アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女』『中田語録』『中田英寿 鼓動』『中田英寿 誇り』『イチロー・オン・イチロー』『和を継ぐものたち』『トップアスリート』『勘三郎、荒ぶる』『YOSHIKI/佳樹』『なぜあの時あきらめなかったのか』『横綱白鵬 試練の山を越えてはるかなる頂へ』『全身女優 森光子』『仁左衛門恋し』『熱狂宣言』『五郎丸日記』『それってキセキ GReeeeNの物語』『虹色のチョーク』等、多数。
最新刊『M 愛すべき人がいて』は、累計21万部突破のベストセラーに。
2014年9月より、高知県観光特使を勤める。
現在、執筆活動をはじめ、テレビ番組でのコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。